私は思考するのが偏執的に好きなのかも知れない。
 どんなものにでも意味があると思いこみ、その意味をくみ取ろうとする。それ自体は間違いでもないのかもしれないが、考えすぎれば深みにはまるという奴で表層的な物では満足できずにアナグラムだ暗号だ、韻だ、シンメトリーだとそういうくだらない、本当にくだらないことにまで手を出して時間を無駄にする。
 抽象的な絵の意味を考えるのも哲学を考えるのもその行為と大して変わりはしない。
フェルマーだって同様だ、最近解き明かされてはいるが17世紀にかのような解法があるとは思いにくい。というよりも解法の一部分だけでも17世紀では大発見に値するだろうに、それすら余白の都合で全カットとはフェルマー氏も大人げないだろう。
 私が思うに、最近の解法はフェルマー氏のそれとは違うのではないかと思う。といっても地下を一直線に進むのと、地上の電車を何本も乗り継ぐ程度の違いでしかないと思うが。
 なぜこのような思考遊びを必死で行っているかというと、自分の正当性を暗示させるためだ。
 後付の理由をでっち上げるとは我ながら愚かしいとしかいえないが。突発的なストーキングを行っている後ろめたさをぬぐい去るにはこういう思考にはまるしかないように思えた。
 笑えるぐらいに愚かしい。
 相も変わらず私とホシは20メートルほどの距離をあけてあぜ道を歩いている。
 季節が秋でよかったと本当におもう。虫の鳴き声がなければ私はとっくに気取られていただろう。
 それほど街の雑踏から縁遠い場所だった。駅から出て20分ほど歩き通しだったがコンビニの一軒すら無い。
 さっきも考えたのだが、ここは本当に都内なのだろうか。
 幅が5メートルしかない程度の川にかかっている橋に足をかけて、彼は立ち止まった。
 

続く

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